2016年07月04日

尾上の家について

まず先日の父方、武家としての冨澤氏、冨澤家について、詩を書くうえで、詩人が自己を明らかにしておきたいとして、書いたことを一部引用しておく。

…以下では、自分の家系・出自のことを書いて置こうと思う。その主旨以外に求めるものはなく、私の親族・遠戚のものたちのプライバシーを守れる範囲で、ここに明らかにすることに限定する。また話のソースは私が口伝・親族からの手紙などで、実証的に研究された歴史的事実ではないことを予め申し上げておく。…

…ではなぜ本来、和歌や哲学、現代詩に興味を持ったのだろうかそのルーツは母方にあるようだ。…

本当に過去の自分の半生を振り返ると、
中学生の12歳で現代詩に目覚める。当時の進学試験のみを目的にしたような「学問」に対する猛烈な廻りのひとたちとの見解の相違、反発。哲学への興味、現代詩の投稿、法学部出ながら哲学修士を取ってしまう。父親の早世による仕事をしつつ苦しい勉強をしていた、にも関わらずふたつの学問をこなして身体を壊す。母の看病をしながら恢復し、亡くなったあとは自分の幸福を求めて仕事を続ければよかったのに、母の死の痛手を庇うのに古典和歌に傾倒して、現代詩を再開、投稿を続け、ついに詩集まで出してしまう。

これらに関係しているものは、子供の頃から聞いていた「学問は人間性を陶冶するものである。」という母親ゆずりの考え方、和歌に対する敬意。幼児期・少年期を過ごした母の実家にあった古い日本史の書物、膨大な祖父の蔵書。でもほかの同級生の子供たちのようにおじいさんはいなかった。一番古い祖父についての記憶は、幼稚園に入ったかどうかのとき、おばあさんの膝の上で寝ているときのことで、

「おじいさんはどうしたの?」と言うと、おばあさん、
「もう亡くなったの。長い間、長慶天皇の研究をしていて。長慶天皇というのは、南朝の天皇で長い間在位(したかどうか)がわからなかったひとで、、、。」

もうここまで読んで読者はびっくりしているだろう。あまりこんな話を祖母から聞く子供はいないはずだ。

まあー、すごいおじいさんで、このひとのことを書くと百万言を尽くしても足りないほどのひとである。祖父は尾上金城(おのえ きんじょう。これは筆名、号である。本名は、榮吉。えいきち。)というひとで、長く宮内省の諸陵寮に勤めていたそうだ。多分嘱託であったろうが、天皇史・墳墓の専門家であり、学者であった。慶応4年(明治元年)生まれ、明治・大正と祭政一致の時代、天皇稜参拝が国民のブームになる時期を過ごしている。この関連は私には不明だが、当然のように神主の資格を持っていた。文筆家としても大変活躍したひとで、現在も存続している歴史雑誌をはじめ所々に多数寄稿しているほか、明治期には児童教育の本も書き※、浪花節関係の本も書いている。母から聞いたことであるが、そのほかにも関心は広く、ドイツ哲学、バイクの修理、食通、と多くの分野に一家言持っていたひとらしい。確認できていないのでここでは書けないが、まだまだいっぱいの文筆歴がある。(私は見たことはないが、喜劇の台本まで書いたとか、、、)
※ネットを検索していると、中原中也館の企画展示のなかにも祖父の本があった。

大変母の家族にとっては不幸なことではあるが、家政を傾けて古墳を私費で発掘したことがある。墳墓の歴史を調べに大陸にまで足を伸ばし、馬賊の人たちと交流したこともあったということである。かなり活動的な文化人でもあったようだ。私が個人的に確認したところでは、宮内省の転勤であったのであろうか、大正末年ころから昭和19年に亡くなるまで、晩年の数年は別にして大阪・京都・奈良と居を数年ごとに変えている。京都御所に近い住所は母が幼少期の思い出を辿りつつ訪ねてみると、宮内省の元の宿舎であったようである。歳を取って大阪府吹田市に落ち着いてからは、皇陵をテーマに種々の雑誌を個人で主催、出版していた。また同市内にある関西大学の学生たちが作るサークルの講師もしていた。(関西大学はのちに私の母校にもなる。いろいろと調べてもみた。)

はじめて祖父について聞いた長慶天皇について簡単に申し上げれば、明治になって正統と認められた南朝であるが、その南朝の後醍醐天皇、後村上天皇のあとの天皇で北朝に対しては強硬な態度を貫き、弟の宮、後亀山天皇に譲位することで両統の合一が計られたとされている。御製の和歌と源氏物語の注釈本で有名な「仙源抄」が確実な資料として伝えられているというほか、詳しい事績がわからない天皇であった。大正時代になって在位が公式に認められたが、陵墓を治定(じじょう)することができず。祖父は後半生のライフワークとして研究を続けたようだが、ついにわからなかった。(と金城の妻であった、祖母から聞いた。私の知識は自分で調べた現在の一般的な見解、祖父の論文、祖母や母から教えてもらったことが混在しているので、この記事を見ている読者は注意されたい。)

私の祖母とは2度目の結婚で、実に祖父57歳のとき大正13年に母が生まれており、それ以前のことはあまりわかっていない。昭和になってからが母のよく知る金城の姿であるが、母も亡くなり、叔父たちも当時は若く幼く、この祖父のことを知るひとは、看病をしながらよく話を聞き、母の希望で祖父の霊場を一緒にめぐったことのある私だけになってしまったようなこともある。その意味でも、ここに書いておくことにも価値があるだろう。また祖父の意思としては、昭和10年代後半、戦争がひとびとの生活に痛手を深めるなかこれらの研究誌も自分の研究も顧みられることがなくなり、ついにガリ版刷りにして、このうえは図書館に寄贈して後世に残そうとしたという話もある。

もとは江戸の尾上屋という松坂出の油商の息子であったが、本居宣長(幼名を取ると、小津富之助)の学統を引くとされている。宣長との家系・血縁関係については正確なことはわからない。金城の前の結婚のときの従姉妹に伝えられている話も私の聞いた話と違うことが含まれている。だいたいに小津商人は血縁よりも、仕事上の役割、資本関係が一族を成す原理規範になっている。たとえば宣長の兄は、宣長が長男であるのに才覚のある義兄が商売を継いでいた。私が母から聞いているのは、江戸の尾上屋が跡取りがなく、宣長の血統で遠縁の家からいとこ同士を夫婦として跡を継がせたという。またこの調子であるから、養子などで遺伝子のつながりは途絶えているかもしれない。私にもわからない部分が多いので、ここでは「そうらしい」ということにしておく。

こういう家では娘には和歌を教えていたらしく、祖父のおばは歌人であったようである。幕末の大奥で奥女中たちに和歌を教えに行っていたと、母から聞いた。そのほか明治になってからも、まだ確認はできてもいず、よっぽど慎重に関わり方を判断する必要があるので、具体的には明確にはしないが、高級な婦人たちに和歌を教えていたようである。

今回これを書くために、戦後に多くの金城の資料・草稿・著作・手紙が失われたなか、私の手持ちの資料に目を通してみたが、十分学者として通用する水準の著作であるようだ。もっとも何にせよ90年近く古い文体とかつてそれなりの世界として存在したであろう常識、疑古文、レ点付きの漢文で書かれている分、これ自体が歴史的文書として解釈が必要であった。専門外の私の理解のレベルを若干越えたものであるのかも知れない。しかも明治・大正と諸陵寮の頭を長年務め、宮中顧問官にもなられた山口鋭之助さんも当時の宮内省の仕事の内部に立ち入った貴重な回想録を祖父の研究誌に多数回寄稿されており、その発行部数の少なさとともに、これらの論述にしても、このままにしておいて良いものかとも思われた。

母が祖父の陵墓・天皇史の理解と研究に言及するとき、この山口鋭之助氏の話は常に出てきて、親密な交際があったようである。山口氏は10歳ほど祖父よりも歳がうえであるが、本来は理学博士であって、実際諸陵頭になられたときも、当初は山稜の設備の管理のほうで大きな功績を残されている。(後年には陵墓に対する認識とご見解で著作も著されている。)幅広い知識を持ち、陵墓に詳しかった祖父とは良い組み合わせであったようである。なおこの方が宮内省に入る前は学習院の院長であり、その後任が乃木希典さんになる。

これらの研究誌の編集に当時10代の母は手伝わされ、母はこの古文や難しい文章が読めた。また小津の私教育であろうか、もちろん和歌の素養は基本知識としてもっていたが、祖父は歳を取ってから生まれた娘に特に愛情を注ぎ、源氏物語をなんとか読まそうとした。しかし母は太平記などの武士の物語を好み、特に婆娑羅大名、佐々木道誉の大ファンであった。そのほかにこの歳を取った祖父と母の関係では、例えば当時は中央から派遣された大阪府知事が主催するような宴会に祖父は名士として呼ばれたりしていたが、まだこの時代は明治以来の伝統で西洋式の男女同伴の会には母がエスコートで付いて行ったという。こんな感じで、私の母はほかの女性にはないような社交性を身につけていったようである。私も無意識のうちに女性にドアを開けてしまうし、先に行かせてしまう。

こうして私には学問・知識に対する古風で洗練された考え方、和歌に対する敬意などを母から教わったし、父からは古武士の習わしなどを教えられて私は育ったことになる。私の詩を知るひとは、こういうと頷けるものが多数あると思う。私の詩はかなり手法としては現代詩として冒険的なことをしているではあろう、しかし本質的には文化的に日本の伝統に忠実な部分もある。
posted by moliharu at 00:00| アート・文化

2016年06月28日

冨澤の家について

詩を書くうえで、詩人が自己を明らかにすることはよくある。それは個々の詩よりも詩人の名前のほうが大きな意味を持つことがあるからである。その主旨で以下では、自分の家系・出自のことを書いて置こうと思う。その主旨以外に求めるものはなく、私の親族・遠戚のものたちのプライバシーを守れる範囲で、ここに明らかにすることに限定する。また話のソースは私が口伝・親族からの手紙などで、実証的に研究された歴史的事実ではないことを予め申し上げておく。というのも我が家の祖自体が戦国時代に遡るからである。

本来は家系に属する者の間の口伝であるが、「富澤」の祖は戦国時代の上野の武将で、勇猛を持って知られた人であったと聞いている。戦略的な理由で娘に武田氏の家老の家から婿を取り、我が家を武田氏の一族とした。叔父のところに調査に来たある大学の研究者からの話ということだが、この武士の子孫は4つの家に分かれて上野に威を奮ったが、現在のよくドラマ化される織豊期の始まるよりも前に武士団としては衰退・滅亡してしまったと聞いた。さらに徳川時代にはこの地の地方官であったのかもしれない(これは私の推測)が、この研究者によるとこの時代のうちから「富澤」をワ冠の「冨澤」にし、「とみさわ」を「とみざわ」にするようにされたとか云うことだった。古い家系を顕彰するのが、徳川・江戸時代の文化事業でもあった。

このかなり豊かであったらしく、一定の地位を保ち続けた武士の家が明治時代を迎えたときには桐生にあり、この家から出た曽祖父が太田に進出、渡良瀬川の砂利採取権を得て、現在の首都圏と言われる地域が急速に成長するなか一財を成したようである。その次男が私の祖父であった。そして私の父は、昭和元年生まれ。この年代の日本の歴史を知るひとなら、父と祖父の一家に非情な悲劇が待っているのはよくわかるであろうが、私も詳しい事実は知らない。推測は幾重にも立つ。ともかく父の幼少期には繁栄していた曽祖父以来の一族は没落して、父は苦学をしつつ、昭和19年中央大学の法学部に入学した。

しかし昭和20年、二十歳の父は陸軍の偵察機の搭乗員にされてしまった。この事実を知ったのは、私が小学生のころスタイルの優れた軍用機のプラモデルを買ってきて、それを見るなり父が激怒して「守治、もう今夜は寝ろ!」と訳もわからずに怒鳴られて知った。敵地の写真を昼間撮るため単機で敵地の上空に潜入、双発のエンジンと流線型の極めて空気抵抗の少ない機体を持ち、高速だけを頼りに逃げ帰ってくる、危険このうえない仕事だったらしい。父が実戦に加わったかは知らないが、相当つらいことがあったようで、負傷もしたような話もしていた。そのとき以外には二度と詳しい話は聞いていない。

なんとか父は生き残り、戦後大阪進出を目論んでいた読売新聞社に入社、大阪読売新聞発刊のスタッフになり、そこで事務員をしていた母と結婚したわけであるが、発刊後には文化面の記者をしていた。しかし私がものごころがつく頃、どういうわけか読売新聞を辞め、業界紙の雇われ社長を数社渡り歩くことになる。だが上品な関西にあって上州流の荒々しい気性のせいか父の仕事はどれも続かず、次第に家は困窮して行ったが、読売新聞のときの上司が京都の新聞販売店を世話をしてくれて、それで十数年ほどして父は亡くなった。

こうしてもう詩を書いていた21歳の私は母と一緒に新聞販売店を経営しつつ、大学・大学院と勉強を続けていき、さらに私は過労で倒れ、回復後は重病の母を世話ができ、自身も頼りない自分の身体を保養するため転勤もなく時間の自由がきく保険代理店を始める。母の死後、寂しさを鎮めるために新古今和歌集を読んだのが、私の現代詩・和歌の再出発になった。拙詩集「夜桜は散り落ちて」に書いたとおりである。

保険屋が現代詩を書くと驚かれたことがあったが、物事は逆である。本来かような出自を持つ、現代詩に関連して哲学に興味があった法学士が、苦学して曲がりなりにも哲学を勉強している間に体を壊して、家族を守るのに必要な仕事をしつつ、やっと詩を書く心境になり、それができるようになっただけなのだ。ではなぜ本来、和歌や哲学、現代詩に興味を持ったのだろうかそのルーツは母方にあるようだ。これについては稿を改めることにする。
posted by moliharu at 15:13| アート・文化

2016年01月22日

2016年の賀詞

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今年の年賀状です。
歌のテキストも表示しておきます。

年暮れば出来事の群れ押し寄せてわれが成したはどれほどのこと

通う路(ミチ)ひとの歩みはあわただし暮れ往く歳の愛おしさかも

雑煮喰む三つ葉の隅が香り立ち母が千切りし父が愛でた日は

いつになく歌いの夢は立ちのぼり諍いおるは言の葉の群れ

初春に来たれる女(メ)に風優(スグ)れトキあればこそ歌い染めにし


無断引用・再配布を禁止します。
posted by moliharu at 23:59| アート・文化

2015年04月27日

従来型携帯が生産終了?

何かが、おかしい。そもそも4割を越えるシェアのある従来型携帯電話(「ガラケー」という言葉は、ガラパゴス島民とエクアドル政府に失礼なので、私は使わない。)を、数年後でも生産を終了するとはあまり考えられない。

中高年の利用が多いと云われるが、これからは高齢化社会になる。さらに企業が仕事時に配布しているのは、もっぱら従来型携帯で、そもそも仕事中に仕事に専念しないで画面を触ってもらっていては困るはずだ。

「アンドロイドつまりスマホ・タブレット用のソフトに統一する。」、すなわち「従来型携帯が生産終了。」というのは、かなり単純な論理に観える。

アンドロイドはLinuxカーネルを使った、いわば通信に特化したLinuxソフトウェア集合体の一種であるだけ。私のテレビは映像に特化したLinuxを使っていると表示していて、フリーソフトウェアとしてGNU General Public License(一般公衆利用許諾書)という文書が添付されている。私の折りたたみ式携帯電話も独自に開発されたLinuxのシステムを使っていて、ソースコードをtarballに圧縮して、ネットで配布している。

Linuxは改変自由で無償で提供される。私も音の出ないマザーボードのためにファイルを書き足して、各種Linux OSを改変して使用していた。Androidもスマホ・タブレットの各機種に合わせて改変されているようだ。特にユーザーと情報をやり取りするインターフェースが著しいそうだ。

この関係をまったく理解しないで、
「アンドロイドを入れた、従来型携帯の形をしたものも存続する可能性もあります。」という報道も、本末転倒。これも厳密にいえば、何か変に感じる。

おそらく各社とも、いまの時点では、
「アンドロイドを主要ソフトとして採用する可能性は多いですが、従来型携帯の生産を存続するかどうかは、その時点の契約者の希望と需要に合わせて判断します。」
という趣旨の発表をするしかないと思うのだが、いまのところどの会社の見解にも、少なくとも私は出会っていない。

携帯電話が500グラムをやっと切った時代から携帯を使い(もうほぼ24年)、スクリーンスイッチのついていた「電子手帳」、「マイクロコンピューター」を使って仕事をしていた身にしてみれば、スマホはその延長線上の機器にしか見えない。電子手帳も電話機能をつけることはできただろうし、携帯電話に繋げてもFAXは送れた。面倒なのと必要がなかったので、私はしていない。あの当時、「携帯」とは通信会社の電波塔も含め大きなシステムのことで、私の手にした「端末」は「無線機」と呼ばれていた。それでも重さも30分は腕が痛くならないで使えたし、かな文字で50件も通信先が登録できる「優れもの」だった。どうもいまのひととは認識が、違う。

現在でいう「スマホ」はアップル社が開発したものがはじめであろうが、それに「日本型携帯は電話の概念を越えている。電話は電話機能だけで十分。」としていたアメリカ人が飛びついたことも不可思議だ。iphoneが初めて発表されたとき、「ああ、そんな組み込みをついにやったか。アップルらしいな。」というのが、私の別になんとも思わなかった「感慨」ともいえない一種のため息だった。

そのあとに起こった大騒ぎ、ずっと奇妙に感じてきた。

 バス停や闇夜に浮かぶスマホ顔、ひともひとなれ数も数なれ

日本型の高機能携帯端末が規制し、管理していたものも飛び越え、犯罪と使用者の被害が発生している事実を見るたび嘆かわしく思っているのに、こういう報道があると、なんか逆なでされているような感触がある。

そうそう、誰しも好きなことは可能な限り追求できる社会が理想だと思っていて、私はスマホ反対派でもない。ただただ高機能携帯端末が好きなだけで、一方スマホには規制と管理が不十分だとは思っている。タブレットは持ちたいとは思うけど、その値段で自作パソコンがもう一台できますしねー。どうかな。

別にスマホに夢中になっているひとにエスカレーターで車輪附きのバック(和製英語でいう、いわゆる「キャリーバッグ」。)を落とされて恐怖感を感じているとか、スマホに熱中していて、不特定の他人の集まる場所でスキだらけになっているおじさん、おばさん、おにいさん、おねえさんに眉を寄せているとかは大した問題ではないでしょう。エスカレーターの件は、ひらりと身をかわして大丈夫でした。観ていたひとには、かっこよかったでしょう^^。
posted by moliharu at 23:35| デジタル・インターネット

2012年08月27日

幾度なく話された夏の言葉に…愛を込めて…

ドラマで「はつ恋」のことが取り挙げられ、好評を博しているようだ。こういうナイーブなテーマが大人のドラマとして受け入れられていることには、私も好感を持って接している。大人の男女の恋愛が真面目な問題として考えられているのだ。

このテーマではどういう表現が可能か、私も一時期は相当集中した時期があった。ヘタをすると甘くなってしまうし、なかなか難しかった。この詩はそのうちのひとつ。

「幾度なく話された夏の言葉」とは、「太陽は沈まない」という決まり文句である。しかしその「太陽」とは「初恋」のことである。こういうメタファー(隠喩)の例は、あったではあろうが、割と少ないように思える。そして哲学的な文法論を構えている。

「もし私が(あの人が)…だったら、…(というひと)だろう。」
「だったら」、仮定する意識は過去へと問いかけ、
まだ見ぬ、そして見たこともない過去を、「だろう」、現在に結びつける。

隠喩と哲学、古くて拙いところはあろうが、典型的なあるいは古典的な「現代詩」であろう。

詩文と朗読は、ここ
posted by moliharu at 02:54| 現代詩